罪とは狂気のさた。それによって心は正気を失い、錯覚に真実の代わりをさせようとする。そして正気ではないのでその心は真実があるべきところ、実際にあるところに錯覚を見ている。罪がからだに目を与えたわけだが、罪のない者はいったい何を見たいと思うだろうか。その人たちにはどんなものを見たり聞いたり触ったりする必要があるというのだろう。何に耳を傾けたり、手を伸ばしてつかんだりするつもりだろう。いったい何を感じ取るというのだろうか。感じ取るとは分かっていないということ。ところが真理はただ知識で満たされるだけであって、それ以外にはなにもない。
からだというものは、心が自らを何とかだまそうとして作った道具。その目的は努力すること。だが努力する目標は変わることがある。だから今やからだは違うことを目指して努力するのに役立っている。それが今求めることは、心が自己欺瞞を目標とする代わりに目指そうとすることによって選択される。それはうそをついたり偽ったりもできるが真理を目指すこともできる。そうなると、五感は真実であるものの証拠を探そうとする。
罪はすべての錯覚が生まれたところであり、それは想像したものごとを表すだけだし、本当ではない思いから起こる。そんな錯覚が、真実性のないことが本当だという「証明」になる。罪が神の子は邪悪だし、時間を超越した状態はきっと終わり、永遠の命も必ず死ぬと「証明」する。そして神御自身は愛する御子を失い、御自身を完了するのは堕落しかなく、神の御意志は永久に死に征服され、愛は憎しみに殺されもはや平安はなくなる。
狂人の夢はじつに恐ろしく、罪はたしかに怖がらせるように見える。しかし罪が知覚するのはただの子供じみたあそびにすぎない。神の子は自分がからだになったり、邪悪さや罪責感に苦しめられ、死で終わる短い命しかないふりをしたりするかもしれない。だがそのあいだずっと御父は御子を照らし、永遠の御愛で愛してくださっているのであり、御子がどんなふりをしようと何一つ変えることはできないのである。
ああ神の子よ、いったいいつまで罪の遊びを続けるつもりなのか。こんな危なっかしい子供のおおもちゃはかたづけることにしたらどうだろう。もうすぐ家に帰ってくる気になりそうだろうか。もしかすると、今日かもしれない。罪はないのである。創造されたものは変わってはいない。天国へ戻るのをまだ延ばすつもりだろうか。いったいいつまで、ああ聖なる神の子よ、いったいいつのことになるのだろう。