奇跡の道・学習書

二部【十四 自分とは何か】

 自分は神の子、完全であり癒されており統一されており、神の御愛を反映して輝いているのです。自分のなかで神の創造なさったものは神聖にされ、永遠の命を保証されています。自分のなかで愛は申し分のないものとなり、恐れは不可能となり、いつも喜びに満たされています。自分こそ神御自身の聖なる安らぎの場。自分こそ神の御愛がある天国そのもの。自分こそ神の聖なる罪のない御すがたそのもの、自分の純粋さのなかに神の御自らの純粋さがあるのですから。

 

 我々が言葉を使うのはもう少しで終る。しかしあなたと私、ふたりで一緒に神に捧げたこの一年の最後の何日間に、我々が分かち合った唯一の目的を見いだした。そうして、あなたは私と心を一つにしてくれたので、私の本来のすがたはあなたの本来のすがたでもある。我々が何であるかという真実は言葉では話せないし、描写するものでもない。しかし、ここでの自分たちの役目を悟ることはできるし、これを言葉で言い表したり教えることもできる、もし自分たちのなかの言葉そのもののよい例となりさえすれば。

 

 我々には救いをもたらす役目がある。この世界の救い主としての役割を受け入れよう、この世界は我々が心を一つにして許すことで贖われる。だからこそこの、我々の贈り物が、自分たちに与えられている。我々はみんなをきょうだいとして見て、すべてのものごとを快いもの良いものと知覚する。天国の門を越えた役目は求めてはいない。知識は我々が自分の役割を終えたとき戻ってくる。我々はただ真実であることを喜んで迎え入れることに心を配っている。

 

 我々の目を通して、キリストの洞察力は罪の思いからことごとく贖われた世界を見る。我々の耳で、神に代わって話す御声がこの世界には罪はないと宣言するのを聞く。我々の心は、自分たちがこの世界を祝福するにつれて一つに結ばれる。そして我々の得た調和したすがたできょうだいみんなに呼びかけ、自分たちの平安を分かち合い我々の喜びを極めようと招く。

 

 我々は神に代わって話す神の神聖な使者であり、神が自分たちのところに送られた人たち一人ひとりに神の御言葉を伝えることで、その御言葉が自分たちの胸に刻まれていると分ってくる。こうして、自分たちがきた目標や、役に立とうと努める目標について我々の心は変わる。我々は、自分で苦しいと思っていた神の子に、嬉しい知らせをもたらす。今こそ、その人は贖われる。そしてその人は自分の目の前に天国の門が開かれているのを見ると、そこに入って行き、神の御胸のなかへと姿を消す。

 

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