エイミー(大関恵美)ホームページDive into your soul

お問い合わせ
奇跡のコースとは

A Course in Miracles
奇跡のコース

それは、あの人からの
長い、長い、手紙のようでもありました

人生の午後とは

奇跡のコースって何?

奇跡のコースとは一冊の本です。1976年にアメリカで出版されました。現在では20ヶ国語以上に翻訳され、累計販売数は200万部以上、原書を含めた関連書籍の累計発行部数は1000万部を超えます。日本で「奇跡の道」「奇跡講座」「奇跡のコース」などに訳される本の原題は「A Course in Miracles」で、「Course(コース)」「ACIM(エーシーアイエム、アキム)」とも呼ばれます。実はこっそりベストセラーです。

1965年、アメリカ・ニューヨーク州コロンビア大学、臨床心理学教授助教授ヘレン・シャックマン女史が、イエス・キリストから届くメッセージを書き留め始めます。それを同大学、臨床心理学教授ウィリアム・セットフォード氏が協力する形で編集、のちにケネス・ワプニック臨床心理学博士が校正、1976年に出版されました。テキスト、ワークブック、ティーチャーズマニュアルの三部からなっています。

原題「A Course In Miracles」の「Course」は、英語で【講座】【講義】という意味であり、

奇跡のコースは【奇跡の講座】、奇跡について学ぶ本、イエス・キリストから直接受け取るガイダンス

と言えるでしょう。イエス・キリストからの長い長いお手紙、そんな気がしています。

奇跡のコースの「奇跡」って?

私がコースを学び始めてまず疑問に思ったのが

「奇跡ってなんだ?」

ということでした。それについてコースの中にこんな言葉があります。

奇跡とは訂正することである。それは創造するのではないし、実際のところ何も変えるわけではない。ただ荒廃状態をながめて、心にそれが見ているところは間違いだと気づかせるにすぎない。

奇跡の道 学習書 二部
十三 奇跡とは何か ・ 第三百四十課

奇跡とは訂正することなんだそうです(まんまやん・笑)。何を訂正するのかと言うと、私たちの知覚。

私たちが普段使う意味合いでの奇跡は、すごいこと、素敵なこと、ラッキーなこと、あり得ないこと、そんな何かが起こることを言う傾向がありますが、奇跡のコースの「奇跡」はそうではないのですよね。

「知覚」についてMacに入ってる辞書に聞いてみると…

"【知覚】
①知性によって知り悟ること。
②感覚器官に与えられた刺激作用を通して、外界の物事・事象を、ひとまとまりの有意義な対象として掴むはたらき。知覚を構成する基本的要素が感覚で、こちらは物理的属性との関係で部分的なものとして捉えられることが多い。"

とあります。つまり、私たちが認識するもの、見るもの、聞くもの、感じるもの、そこから考えるもの、理解するもの、解釈するもの、そんなもんをみんな訂正することを、コースでは「奇跡」と言うのです。つまり

【奇跡の講座=知覚の訂正の講座】

コースに出会った頃、私はちんぷんかんぶんでした。

なぜ知覚の訂正をするのか?

なぜ知覚の訂正をするのかと言うと、私たちの知覚が間違ってるからなのだそうで。こりゃびっくり。間違った認識を正しい認識にしよう、というのが奇跡のコースと言ってもいいでしょう。

どんなことでもそうですが、間違いを正すと間違いによってできていた「ひずみ」がなくなって、間違いがなかった時の状態、つまり「元の状態」に戻ります。

コースはそこを目指してるんです。私たちを元の状態に戻すこと、それが知覚を訂正する理由。

間違いによってできていた「ひずみ」とは、私たちが認識しているすべて、人や物事や状況、問題、悲しみや苦しみ、解決できない何か、救われない何か、そうしたものすべて。

それがなかった時の「元の状態」に戻るためのことを学んでるというわけです。

とんちんかんな知覚を本来のものにすること、それがコースの目的。「コースを実践する」なんて言い方もしますが、それは、終始この知覚の訂正をやっていて、原題のタイトルが「A Course in Miracles(奇跡のコース)」つまり【奇跡の講座】であることがうなずけます。

奇跡とは訂正することである。それは創造するのではないし、実際のところ何も変えるわけではない。ただ荒廃状態をながめて、心にそれが見ているところは間違いだと気づかせるにすぎない。

奇跡の道 学習書 二部
十三 奇跡とは何か ・ 第三百四十課

前出のこの引用の中の「荒廃状態」とは、私たちの知覚=「心がそれに見ているところ」が間違っていることを指しています。

元の状態ってどんなの?

私たちがこの世界で見るもの聞くもの、これはこういうものだな、と感じたり解釈したり理解したりしてるものすべてが

「それ本当のことじゃない」

ということで、そう、私たちにとって、そして、この世界で当たり前になってること、これはこういうもの、というものが

「全然本当のことじゃない」 

ということで、イエス・キリストが、ざっと50年ほど前にヘレン・シャックマンさんというアメリカの女性に

「あのー、みんな本当のことじゃないことを本当のことだと思ってるのでゴニョゴニョ…」 

と、ヘレンさんの心の中に話しかけたきた内容が本になった、それが奇跡のコースです。イエスは一番はじめに

「これは奇跡のコース(=奇跡の講座)です」

と言ったそうです。

イエス・キリストと言うと、最初、宗教的感じがしました。もっと言うと「あやしい、新手の宗教か…」と思いました。私は無宗教で、お墓のあるお寺は曹洞宗、そこの檀家なので無理やり宗教を持ってくるなら仏教の曹洞宗、ということになるでしょうか。コースは宗教やお墓がどこかなどは関係ないのです。

イエスには言いたいことがあったのですよね。2000年くらい前に人間だった頃に一生懸命伝えてもうまく伝わらなかった上に、言ったことが違って伝わって、時には誰かがねじ曲げたりで、マジうまく伝わっていないので、今度はヘレンさん使ってもう一度チャレンジした、砕けて言うとそんな感じなのだと思います。

それで、何が言いたかったのかと言うと、私たちの元の状態がどんなものかということ。私たちは

「完全な愛」

ということ。無条件に。全員例外なく。 

けれど、そう思えません。そう知覚できません。愛に見えない誰か、愛に見えない自分、そんなのばかり。ムカつく人、それってどうなのって人、納得いかない人、キライな人、憎たらしい人、こわい人、苦手な人、合わない人、いるいる、いっぱいいます。

むしろ、みんな愛、と言われるとイラッとしたこともありました。そもそも自分が愛だなんて思えなかったのです。人がどう見えるかは全部自分の投影であるし。

それなのにイエスはすべての人が完全な愛だと言います。

じゃあ愛って何?

奇跡のコースではこう書かれています。

この道は愛を教えることを目指しているのではない、なぜならそれは教えられることを越えているからである。しかしながら、愛は現存する、と自覚することをさえぎるものを取り除くことはたしかに目指している。そしてその愛はあなたが生まれながらに受け継いでいる。愛に反するものは恐れであるが、すべてを含み持つものは相反する物を持ち得ないのである。

奇跡の道・序文より

「その愛はあなたが生まれながらに受け継いでいる」ってあって、つまり元々そうだよ、と書いてあるのです。なぜ私たちの元の状態が愛なのかと言うと

神の子だから。

それが私たちの元の状態、元の姿。本当の姿であり、コースが私たちを戻そうとしているのがそこです。それがわからなくなってしまっているがゆえにすべての苦しみがある、そう錯覚している、と。

私たちは神の子、スピリチュアルな話ではよく聞くことですが、それは情報として知ってるだけで、自分のものになってるのとは違い、私はそれが言わんとすることがまったくわかりませんでした。

神の子、と言っても、神のおまたから生まれたわけではなく、コースの言葉で言えば「神が拡張したその一部」、さらにわからなくなりました。まったく意味不明。奇跡のコースに書いてあることは理解できないのがデフォルトです。実際コースにこうあります。

あなた方に理解できることは神からものではない
あなた方に理解できることは神からものではない
あなた方に理解できることは神からものではない
(テストに出るので3回書いてみました)

意味不明だったら順調です。はなまるです。この世界で、理解できないこと、わからないことは、よくないことのように思われるけれど、そうではありません。私たちが「わかっている」つもりになっていることは、すべて本当のことではなく「錯覚」であるということを、コースは教えてくれています。

エイミーさん、わかってるんですか、と聞かれることありますが、まだまだわからないこと、実感できないことも、あります。それでも、学び始めた頃より「書いてあることは本当なんだな」と感じることはすごく増えました。

コースは「信じなさい」と言わないところが好きです。わからないだろうから、体験させましょう、体験したら本当だということがわかるだろうから、と、私たちを奇跡に導きます。

その導きの中で、私はたくさんの奇跡(=知覚の変化)を体験してきました。それは言葉にならない圧倒的な愛でした。臆面もなくそう言えます。その体験はあまりにも力強く、美しく、尊く、神々しく、それが本当の世界なら、その世界に生きていたい、それが元いた場所なら戻りたい、そう思うようになったのです。

丸投げで行こう

イエスは

わからなくていいから、信じなくていいから、まずは奇跡を見せよう、つまり、まずはあなたの知覚を本来のものに戻そう、間違った知覚を訂正して正しいものにしよう、そうすればわかるから。

と言います。

冒頭の言葉をまたここに。

奇跡とは訂正することである。それは創造するのではないし、実際のところ何も変えるわけではない。ただ荒廃状態をながめて、心にそれが見ているところは間違いだと気づかせるにすぎない。

奇跡の道 学習書 二部
十三 奇跡とは何か ・ 第三百四十課

「間違いだと気づかせる」、つまり自分でやるんじゃなく気づかせてもらいます。これがポイントです。

修行したり、儀式をやったり(あやしい・笑)、そんなものはいりません。特別な能力もいりません。サイキック能力なども関係ありません。コースを読んでいくと出てくる「聖霊」というものが全部やってくれるのです。

どうやったらやってもらえるのか、それを学んでやっていくのが、つまりよく言う「コースを実践する」ということになるのでしょう。詳しくはウェブで、ならぬ、奇跡のコースで。

知覚を変えるとか、心を変えるとか、そんなのもうやり疲れたんじゃないかしら。自分じゃできない。できなくて終わらない、繰り返す、問題や苦しみに絶望したりするんじゃないかしら。私はそうでした。自分でやるのではなくやってもらえると知って、そして、それを実際に体験して、心底救われた気がしました。そして、本当に知覚は変わっていったのです。

そう、聖霊に丸投げで行こう。

本当のこと

知覚を変えてもらうと、違うものが見えてきます。

奇跡のコースが言う奇跡とは「いいことあった、わーい、わーい」とは意味合いが違います。コースをやったらいいことがあるのではなく、知覚の変化があるということ。心が変わるということ。本当のことを見るということ。

その知覚の変化ために、何かの出来事を通して働きかけがあることもあるでしょう。だから、もちろんいいこともありますし、そうではないこともあります。 

大事なのは、誰がどうで何が起こるか、ではなく、それを通してどんな心の体験をするか。

それは人それぞれの個人的体験であり、どんなことがどうだとはここで一概に言えません。ただ、いずれにせよ、とても素晴らしい体験。もう元には戻りたくないときっと思うでしょう。 

私がコースの本を最初に開いた時、目に飛び込んできた言葉に涙が止まりませんでした。

「あなたに一切の罪はない。それは神によって保証されている」

なぜこんな私に罪がないの?そう思いながらも後から後から涙が溢れました。それは私ひとりの涙ではなかったと思っています。その言葉は、この世界のあらゆる人の悲しみや苦しみへの答えだと。

私は「何か」を待っていました。それがなんだかわからないままに。そして、出会ったのです。コースに、コースが伝えることに。やがて、私の間違った知覚で見ていたすべてが静かに訂正されていき、そこで見たのは、これまで一度も見たことのない圧倒的な幸せの片鱗。

もちろん、奇跡のコースが絶対というわけではないでしょう。別の入り口もあルでしょう。密教もコースと同じようなこと説いてます。大切なのはコースなのではなく、それが伝えていることであり、元いた場所に帰ること。

私は、どうにもならないことを、そういうものだとか、仕方ないとかで、片付けたくなかったのです。それに耐えられなかったんです。この世界に絶望してたし、本当にイヤだったんです。

コースに出会って「本当のこと」と言われるものを見せられ始めた時、確かに違う世界があると理屈抜きに思えました。そして、それこそが本当のことなのだと。

それから私はコースが大好きになりました。本当のことを見せてくれるもの。帰る道を教えてくれるもの。私たちを本当の姿に戻してくれるもの。 

変な世界の住人

苦しみのない世界があったらどんなにいいだろう、そう思ったこと、ありますか?

私はあります。

この世界は本当に変な世界だと、私は思ってるんです。変でもなんでもない当たり前になっているいろいろなことが、変なことだとずっと思っていて。

なんで恵まれてる人と恵まれてない人がいるんだろう、なんで差別があるんだろう、なんで人は争うんだろう、なんでお金があるんだろう、なんで病気があるんだろう、なんで人は死ぬんだろう、死ぬならなぜ生まれてくるんだろう、そんな疑問がこれでもかってくらいあります。

変なの、って、変な世界、って思っていました。

けれど、答えなど見つかるはずもなく

この世界を変だと思うのは、隠れキリシタンみたいにコソコソしなければならない考え方

だと思っていました。だから、受け入れられないまま、そういうもの、と納得できない納得をして生きてきたのです。

それでも私は「何か」をずっと求めていたように思います。

この世界には、問題の解決策めいたものや、これはあれはこういうもの、これはあれはこうするもの、うんちゃらの法則、などがあって、取り入れて考えたりやってみていた頃もありました。

その時は、これこそが、と思ったけれど、どれもこれも違っていました。すぐに色褪せました。どんなにうまく行っても、一瞬の高揚感の後、決して拭い去ることのできない黒いシミのようななものが心の奥にあることに気づいてしまうのです。けれどどうしたらいいかわからない。だから、あきらめという布にくるんで固結びして心の奥の方に隠しました。隠してることさえわからなくなるほど、奥の奥の奥の方に。

よく考えると、おかしなルールやシステムが存在し、不協和音に満ちた制限がいっぱいあったり。

理不尽なことを「仕方ない」とまかり通らせていたり。

「いい」と「悪い」が存在し、「正しい」と「間違い」をジャッジし、間違っている方には責任を取らせるという形でなんらかのペナルティがあったり。

「普通」と「おかしい」をジャッジし、おかしい方には奇異の目を向けて差別の対象にしたり、おかしいとジャッジされたものを庇護する声が上がり、そうでない声と対立したり。

私たちの心はどこに行ってしまうんだろう。もうイヤ。

そんな場所から身動きできなくなっていた私がコースに出会いました。コースでは私のそんな「どうしようもなさ」が解決されると明言されていたんです。しかも、それは、私たちがするのではなく、あるたったひとつのことをするだけで、もたらされるものであると。

私は、そんな馴染みのない真新しい考えを、自分のものにすると決めました。

コースに出会った頃、それが伝えていることの意味が私にはわからなかったし、わからないままその辺に転がっているおもちゃをおもちゃ箱に突っ込むように、心のどこかに、ポイ、としまいました。 しまったけれど、それは箱の中でいつまでもカタコトと音を立てるように、私をずっと呼んでいました。

そして、行き止まりだと思っていたその先に道が現れました。 苦しみのない世界があったらどんなにいいだろう 、私のつぶやきのようなそんな思いに

そんな世界があるよ、今はそう思えないだろうけど、お前は元々そこの住人なのだよ。お前は自分が思うようなヤツじゃない。それを教えよう。

と、応えるように伝えてきてくれたのです。私も含めたすべての人が、この世界ではなく「その世界」の住人なのだと。 苦しみのない世界、あるはずもないと思っていたそんな世界の。

にわかに信じられるはずもなく、そして、意味もわからず、けれど、それが本当なのだと、私にわかるように見せてくれる出来事が起こり始めて、私の「どうしようもなさ」が払拭されていく瞬間が何度も、何度も、訪れました。

それを「奇跡」と呼ぶのです。

それは、求める人すべての人にもたらされることを、コースを学びながら体験してるところ。それは私自身の体験にとどまることなく、自分がそうした知覚、【奇跡の目】で誰かを見る時、その人にも同じことが起こることも知りました。だから、奇跡がこの世界全体にもたらされてすべてが元に戻る、そのお手伝いをしたいと切に願っています。

私は「絶対に大丈夫」と言えるようになりました。たとえその過程で自我にとらわれてそう思えなくなっても 、戻っていく「大丈夫」な場所を、昔は知らなかったその場所を、もう知ったから。それを自分でやらなければならないなら無理でも、自分でやるのではないのだから。イエスと、聖霊と、一緒であり、私たちひとりひとりが、他の誰かに、時には会ったこともない見も知らぬ誰かに、奇跡をとりなすことによって可能なのだから。

共に行きましょう、奇跡の道を。

ちょっと触れてみようか
奇跡のコースに

ブログで奇跡のコースを生きて感じることを書いています。「奇跡のコースを生きる」のカテゴリーにリンクを張っておきます。

無料メールクラス
オンラインクラス
コースのちょっといい話
デイリーワーク
「奇跡の道」訳者・田中百合子さんについて

ページトップへ戻る