キリストの再臨は神と同様に確かなことであり、単に間違いが訂正され、正気を取り戻すということにすぎない。それは失われたためしのないことが回復し、いつまでも永遠に真実であることを確立し直すのに必要なことの一部である。それは神の御言葉が錯覚に取って代わるようにと招くことであり、すべてのものを例外なく、差し控えることもなく許す気持ちがあるということである。
キリストの再臨のすべてを包括するという性質こそが、それにおだやかに到来してこの世界を抱き締め、あなたを安全に保つことができるようにするし、あなたと共に命あるすべてのものを包含する。キリストの再臨がもたらす解放感には終わりはない、神に創造されたものは無限であるに相違ないのだから。許しがキリストの再臨の道を照らすことになるというのも、許しはすべてを一つのものとしてそのうえに輝くからである。こうしてついに一つであるということを認められる。
キリストの再臨が聖霊の教えてきたことを終わりにし、最後の審判への道を開くことになり、そこでは学んだことが一つの最終的な要約で終わり、それがそれ自体を越えて広がっていって神にまで達することになる。キリストの再臨こそ、すべての心がキリストに任されることになって、真の創造と神の御意志の名において霊に戻される時である。
キリストの再臨は時間のうちでの出来事ではあるが、時間そのものは何の影響も及ぼすことはできない。今まで死ににきた者やまだこれからくる者、あるいは今いる者、一人残らず、自分の作ったものから同じように解放される。このように平等に扱われることでキリストは一つの真の身元をもつものとして元へ戻され、神の子は自分たちがみんな一つであると認める。そして御父たる神は、御自ら一 つ創造なさったものであり御自分の唯一の喜びである御子に微笑みかけられる。
キリストの再臨が近いことを祈るがいい、しかしそれで安心していてはいけない。それはあなたの目と耳と手と足を必要としている。それにはあなたの声も要る。そして、なによりもあなたが快く引き受ける気になる必要がある。我々が神の御意志を行なえることを喜び、一緒にその聖なる光に加わろうではないか。見てみるがいい、神の子は自分たちのなかで一つになっているし、我々はキリストを通して御父の愛に達することができるのである。