からだは神の子が自分で造ったと想像している柵のようなものであって、自分の真の自己の部分を他の部分から切り離すためのものだ。こんな柵のなかで生き、それが腐ってくずれるにつれて死ぬものと思っている。それというのもこんな柵のなかでなら、自分は愛から安全だと思うからだ。自分は安全だと思えるものになりきって、その安全なものが自分自身だと見なしている。そうでなければ、どうして愛を閉め出したまま、からだのなかに留まっていると確信できるだろうか。
からだそのものは残らない。ところがこのことをその人は二重の安全だと見ている。神の子のはかなさこそ、自分の柵が役に立っていて自分の心がそれに与えた仕事をしている証拠になるのだから。もし自分の一つたるすがたがそのまま残っているなら、いったい誰が攻撃したり攻撃されたりすることになるだろう。だれが勝者になるのか。そのとりこにされるのはだれなのか。その犠牲者は、、、。誰が殺したことになるのか。そしてもしその人が死ななければ、神の不滅の子が滅ぼされることもあるという「証拠」がなにかあるだろうか。
からだは夢の一つ。他の色々な夢のように、それは幸せを描き出しているように見えるときもあるが、なんの前触れもなく、恐ろしい状態に戻ることもあり、そうした状態でどの夢もことごとく生まれてくる。愛だけが本当に創造するのだし、真実は決して恐ろしくはない。恐ろしいものとされたために、からだは与えられた目的に役立たざるをえない。しかし、からだは何のためなのかという自分の思いを変えることで、そのからだが従うようになる目的そのものを変えることができる。
からだは神の子が正気を取り戻せる手段ともなる。それは神の子を逃げ道のない地獄にいれて囲っておくために作られたものだが、地獄を追い求めることを天国に達するという目標で取って変えられた。神の子は自分の手をきょうだいに差し伸べ、自分と一緒にその道を歩むようにと手助けをする。今やそのからだは神聖だ。はじめそれは心を殺すためにつくられたのだが、今やその心を癒すために仕える。
あなたは自分を安全にしてくれると思えるものと一体感を持とうとする。それがなんであれ、自分と一つものだと信じようとする。あなたの安全は真実のうちにあり、うそ偽りのうちにはない。愛こそがあなたを安全にしてくれる。恐れは存在しない。愛と一体感をもてば安全だ。愛と一体感をもてば、自分の家にいるといえる。愛と一体感をもって、自分の真の自己を見いだすことである。