この世界は間違って知覚しているものである。それは過ちから生じ、その源を離れてはいない。それはそんなものを生じさせた思いそのものが大事にされているうちしか残らない。分離しているとの思いが本当に許すという思いに変わったとき、その世界はかなり違った光のなかで見られるようになり、その光が真理へと導びき、そこでそんな世界は必ずきれいに消滅するし、そんな世界の間違いはみな消えてなくなる。いまやそれの源はなくなっており、同じくそれが及ぼした影響もなくなった。
この世界は神を攻撃するものとして作られた。それは恐れを象徴している。恐れるとはただ愛がない状態にすぎないのではなかろうか。したがって、この世界は神が入ってくることはできず、御子が神から離れていられるところとなるはずだった。ここで知覚することが生まれた、知識がそんな正気を逸した思いを抱かせるはずがないのだから。しかし目は欺き、耳は間違って聞いてしまう。そうなったら色々な間違いはきわめて起こりやすくなる、確実なものはなくなったのだから。
かわりに錯覚するという機制が生まれた。今や、そうした機制によって見つけるようにと与えられているものを捜し出そうとしだす。それが目指すのは、この世界が目撃し本物にするために作られた目的を果すこと。それはこの世界の錯覚の中に真実があり、うそ偽りから離れて維持されているとの確かな根拠しかみない。だがそれが知らせることはことごとく、真実から引き離されているただの錯覚 にすぎない。
視覚は真理から遠ざけるために作られたとはいえ、その方向を変えることはできる。いろいろな音が神からの呼びかけとなり、目にするものにはみな、神からこの世界の御救い主として任命されたお方によって新たな目的が与えられる。その御光にしたがい、この世界をそのお方が見ているように見てほしい。あなたに話しかけるもののうち、その御声にのみ耳を傾けること。そしてそのお方に平安と確信を与えてもらうといい、あなたはそれを捨ててしまっていたが、天国にいらっしゃるお方があなたのために取っておいてくださったのである。
我々がこの世界を違った見方で見るようになるまで気を抜かないでおこう。許しが完了するまで満足しないでいよう。それに自分たちの役目を変えようとなどせずにおこう。我々はこの世界を救わなければいけない。それを作った我々がキリストの目で見ることが必要だ、そうすれば死ぬことになっていたものが、永遠の命を取り戻せるかもしれない。