自分のきょうだいの罪のないすがたを見ることを選ぶ。
許しは一つの選択である。自分は決してきょうだいをあるがままに見てはいない、それは知覚力ではとうてい及ばないことであるから。その人のなかに見ていることは、単に自分の見たいと願うことでしかないというのも、それこそ自分が真実であってほしいと思うことを表しているからである。自分はこれにのみ反応する、たとえどんなに自分のまわりの出来事に駆り立てられていると思えようとも。自分が見ようとするものを選んで、それを見るということ、ただそれだけを。自分のきょうだいの罪のないすがたは、自分自身のそうしたすがたを見る気があるということを自分に示している。そして、それを見るようになる、自分のきょうだいをそれの神聖な光の中にみることを選択しているのだから。
自分のきょうだいの罪のないすがたを見る以外に、何があなたのことを思い出させてくれるでしょうか。その人の神聖さが、その人は自分と一つものとして創造されており、自分自身にそっくりだと気づかせてくれます。その人のなかに自分の真の自己を見いだし、あなたの御子のなかにあなたの思い出も見いだせます。