奇跡の道・学習書

一部・第百五十三課

 防衛しようとしないでいれば、安全でいられる。

 

 この移り変わる世界と、そこでの運命の巡り合わせや辛辣な戯れごと、そこでの短い関わり合いや、ただ与えてはまた取り上げられる「贈り物」のかずかず、こうしたことに脅威を感じている者は、この課題をよくよく注意して聞くことだ。この世界は安全なところではない。ここでは攻撃することが定着しており、そこで安全だと思えるような「贈り物」はみな錯覚に基づくごまかしだ。ここでは攻撃が何度もなんどもくりかえされる。このような危険に脅かされているところでは、心の平安を得るのは不可能に近い。

 

 この世界は防衛的な態度を取らざるをえなくさせる。脅かされると怒りを覚えるし、その怒りは攻撃する理由があり、仕掛けられたことなので自己防衛の名において正当な行為だと思わせる。ところが自分を守ろうとむきになると二重に脅かされる。というのも、そんな態度は弱みがあることを証明するし、役に立たない防衛体制をとることになるからである。そうなると弱いものはより一層いつのまにか傷つけられてしまう、まわりからは裏切られ、それ以上に内面で裏切られた思いがするのだから。そんな心はもう混乱してしまい、自らの創造の産物から逃れるためにはどうしたらいいのか分からなくなっている。

 

 まるで一つの輪がそれをしっかり固定しており、そのなかでもう一つの輪がそれを縛りさらにもう一つと、逃げることはもはや望めないし、実現できそうにないように思える。攻撃しては防衛し、防衛しては攻撃する、これが日々、刻々と絶え間なく繰り返され、心を鉄で上塗りされた鋼の重いベルトで締めつけているようなもの。心を閉じ込めてしまい、徐々に締めつけられるような思いは中断しそうにないし、終わりそうにもない。

 

 防衛することは、自我が強要しようとする多くの代償のうちで一番高い。そんな防衛策にひそんでいる狂気は実に残忍なかたちをしているので、正気を取り戻す希望は可能性のない無駄な夢としか思えない。この世界が助長する脅威はかなり深く、あなたに思いつける乱心状態とその激しさをはるかに越えているので、それがもたらした惨状の実態についてあなたはまったく見当もつかない。

 

 あなたはそれの奴隷になっている。それが怖くて自分が何をしているか分かっていない。あなたは自分がどれほど犠牲にされてきたかよく分かっていないが、それが自分の胸を強く締めつけているとは感じている。あなたは防衛的な態度をとることで神聖な神の平安をどれほど妨害してきたのか悟ってはいない。あなたは神の子を自ら作った空想や夢や錯覚による攻撃の犠牲者にすぎないとみているが、そうしたことを前にしてどうすることもできないので、さらに他の空想や夢での防衛を必要としており、それで自分は安全だと錯覚し気休めにしている。

 

 防衛しようとしないでいるのは強いということだ。それは自分の内なるキリストを再認している証拠になる。たぶんあなたは奇跡の道の本文のなかで、選択はいつでもキリストの強さと、キリストから離れているとみなされる自分自身の弱さとのあいだでなされる、と断言しているのを思い出すだろう。防衛しようとしないでいれば決して攻撃されることはない、なぜならそれはあまりにも強いので攻撃するのは愚かなことだし、まるで遊び疲れたこどもが、何がほしいのか思い出せないほど眠くなってきたときにしようとする、ばかげた遊びに等しいからである。

 

 防衛的な態度をとるのは弱いということ。それはキリストを否定して、そのキリストの御父の怒りを恐れるようになったと宣言しているようなものである。怒りに燃える自我の神、その恐ろしいすがたがこの世界の邪悪なものすべてに働いているとあなたは信じているわけだが、そんな妄想から今あなたを救えるのは何だろうか。今あなたを守れるのは錯覚だけだろう、あなたは錯覚を相手に戦っているだけであるから。

 

 我々は今日、そんな子供じみた遊びをするつもりはない。我々の神の目的は、この世界を救うことなので、我々の役目が自分たちに差し伸べてくれる限りない喜びを、おろかなことと交換するようなことはしない。無意味な夢の断片がたまたま自分たちの心を横切り、そのなかの人影を神の子と間違えたり、その短い一瞬を永遠と思い違いしたりして、自分たちの幸せを逃すようなことはしない。

 

 我々は今日、夢の数々を通り越して見、自分たちは責めることのできないように創造されており、攻撃することが何らかの意味を持つ思いや願いや夢などもっていないので、防衛する必要はないと認める。今や我々は恐れることはない、恐ろしいことはみな置き去りにしたのだから。そして、防衛しようとなどせずに安心しているし、いま自分はたしかに安全だし確実に救われているとの思いで落ち着いているし、自分たちの使命としてその聖なる祝福を世界中に広げるにつれ、自分たちの選んだ目的を果たすことはたしかである。

 

 しばらくじっとして、自分の目的はいかに神聖なものか、その光のなかでなにものにも触れられず、どんなに気を楽に安らいでいるか静かに考えてみるがいい。神の聖職者たちは真実が自分たちと共にあることを選択している。いったいだれがその人たちより神聖だろうか。だれがその人たち以上に、自分の幸せは完全に保証されていると確信できるだろう。そしていったいだれがその人たちよりも力強い保護を得られるというのだろうか。神の選択ならびに自分自身の選択で、神の選民の一員となっている者に、いったいどんな防衛策が必要となり得るというのだろう。

 

 神の聖職者たちの役目は、自分たちが選んだと同じように、きょうだいが選ぶのを助けることである。神は全員を選んでおられるのだが、神の御意志はすなわち自分たちの意志だと悟ったものはほとんどいない。そしてあなたが自分の習ったことを教え損ねているあいだ救いは待っており、この世界は暗闇に覆われ、ぞっとするような牢獄にひとしい。しかもあなたは光が自分に射し、そこから逃げ出し終えているのに、そうとは分からないだろう。それというのもあなたが自分のきょうだいみんなにその光を差し出すまで、それを見ることはないからだ。みんながその光をあなたの手から取るにつれ、あなたもそれが自分のものだと認めるようになるであろう。

 

 救いとは、幸せな子供たちのする遊びだと思ってもいい。それは御自分の子供たちを愛しておられるお方によって計画されたことであり、そのお方は子供たちの怖いおもちゃを楽しい遊びと取り替えてくださるし、その遊びが恐ろしい遊びはなくなったと教えてくれる。そのお方の遊びをして負ける者はでないので、幸せというものを教えてくれる。その遊びをする者はだれもがみな必ず勝つし、その人が勝つことでみんなが得をするのは確実だ。救いはみんなのためになることをもたらすと分かってきたら、子供たちは恐ろしい遊びをするのを喜んでやめるだろう。

 

 自分の御父に見放され、罪と罪責感で気が狂った恐ろしい世界に、独りぼっちにされて恐怖に震え、希望をなくした振りをしている者よ、いまこそ喜ぶがいい。そんな遊びは終わった。今や、穏やかな時がきたので、我々は罪責感というおもちゃを片づけ、風変わりで子供じみた罪の思いなど、永遠に天国の子供たちや神の子のきれいで神聖な心から締め出すことにする。

 

 我々はもうすこしだけ立ち止まって、この地上での最後の楽しい遊びをする。その後で、我々は真実があり遊びごとなど無意味なところにある、自分にふさわしい場に着きに行く。こうして物語は終わる。この日、この世界の最後の一章を近づけることにしよう、そうすればだれもがみな、ぞっとするような運命や、自分の希望がすべてくじかれてしまうことや、逃れられない報復に対する自分の哀れな防衛策などについて自分の読んでいる話は、自分自身を欺く空想にすぎないと分かってくるかもしれない。神の聖職者たちは、こんな混乱して何が何だかわからないような歪んだ話しについてその人の覚えていることが引き起こした暗い夢から、その人を目覚めさせるためにきている。神の子はこんなことは本当ではないと分って、やっと笑うことができるようになる。

 

 今日、我々はこれからしばらく続けることになるかたちで実践する。毎日、一日をはじめるにあたり、その日の思いにできるだけ長く心を集中させることにする。今から救いを唯一の目標とする一日のために、その準備として少なくとも五分間をささげる。十分間ならもっといいし、十五分間ならさらにいい。そしてわれわれの目的から気をそらせるような邪魔がはいらなくなるにつれ、三十分間ほど神と過ごしても短すぎると思えるようになる。そのうえ夜にも、感謝と喜びのうちに、それに劣らぬほどの時間を過ごしたいような気持ちになってくるであろう。

 

 一時間ごとに、神と分かち合っている御意志に忠実でいることを覚えていれば、心の平安は徐々に深まっていく。時には、もしかすると一時間過ぎるごとに、一分いやそれより短い時間しか割けないことがあるかもしれない。ときどき忘れることもあるだろう。この世界の差し迫った用事で、わずかの時間でも神のことを思うことができないようなことも時にはあるだろう。

 

 しかしできるときには、神の聖職者として任せられていることを行うようにし、一時間ごとに自分達の使命と神の御愛を思い出そう。静かに座って神を待ち、その御声に耳を傾け、つぎの一時間のあいだに何をさせようとなさっているのかを知り、その一方で過ぎ去った時間中に投げてくださった、すべての賜物に感謝を捧げることである。

 

 実践し続けることで、やがては神のことを思わないことは一時もないほどになり、その愛に満つる御声で、あなたの歩みを穏やかな道へと導いてくださっているのが聞こえ、あなたはその道を本当に防衛しようとすることなく歩んで行くだろう。あなたには天にましますお方がついていてくださると分ってくるのだから。そして、この世界に救いを差し伸べるために時間を過ごしているときでさえ、一瞬たりとも神から自分の心をそらしたままにはしなくなるだろう。あなたは神がこうしたことを可能にしてはくださらないと思うのだろうか、この世界と自分救うための神の計画を、実行することを選んだあなたのためだというのに。

 

 今日の我々の主題は防衛しようとしないでいるということ。この一日に対処する準備として、自分をその気持ちで引き締めよう。我々はキリストのうちに力強く立ち上がり、そのキリストの力が自分たちのなかに留まっていることを覚えておき、自分の弱々しさを消滅させよう。キリストは一日中、側にいてくれるし、我々の弱いところをキリストの力で支えてくれないということは絶対にない、と自分で思いだすことにしよう。自分で防衛しよとする恐れが、自分の目的だと確信していることを傷つけそうだと感じるたびに、キリストの強さに呼びかけよう。少し待てば、キリストが「ここにいるよ」、と言ってくれる。

 

 あなたは愛するゆえに、真剣に実践し始めるようになり、それがあなたの心をその意向からそれないように保つ助けになる。怖がったり臆病になったりしないように。あなたが自分の最終的な目標に達するということにはなんの疑いも有り得ない。神の聖職者は決して失敗することはないというのも、その人たちからきょうだいみんなのために輝く愛と力と平安は、神からくるものだからである。こうしたものはあなたへの神の賜物である。そのお返しとしては、防衛しようとしないでいるだけで十分だ。あなたはただ全く本当ではなかったことを捨てて、キリストの方にむき、その罪のないすがたを見るのである。

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