実相の世界は象徴であり、知覚することが差しだすそれ以外のものに似ている。しかし、その世界はあなたが作ったのと反対のものを表している。あなたの世界は恐れの目で見ているので、あなたの心に恐怖を覚えさせる証拠をもたらす。実相の世界は許しに祝福された目でしか知覚できないし、そうした目で恐怖に満ちた世界を見るのは不可能であり、恐れを証明するものを見つけることはできない。
実相の世界には、あなたの世界に反映されている不幸せな思い一つひとつと対照的なものがあり、それは確かにあなたの世界にある恐ろしい光景や争いの響きを訂正したものだといえる。実相の世界は、静かな目と平安な心で違った見方をした世界を見せてくれる。そこにはただただ安らぎがあるのみ。そこでは苦痛や悲しみから生じる叫びはまったく聞こえない、そこには許されていないものは何一つないのだから。そしてその光景は穏やかだ。幸せな光景や響きだけが、自らを許した心に達し得る。
そうした心には、死や攻撃やひどく困難な思いなど何の用もないのではなかろうか。そうした心は、ただ安全と愛と喜びに囲まれていると知覚できるだけではないだろうか。それが非難することを選んだり、反対しようとするものが何かあるだろうか。そうした心が見る世界は自らが平安に満たされている心から生ずる。そうした心が見るものは何であれ、それには何の危険も潜んではいない、その心には思いやりがあるので、思いやりのあるものだけを見てとる。
実相の世界は罪と罪責感の夢が終わり、神の子はもはや眠ってはいないという象徴である。その人は目覚めていて、御父の御愛を確実に反映する、自分は救われるという約束が確かに果されているのがわかる。実相の世界は時間が終わったことを示している、それを知覚することで時間は無意味なものとなるのだから。
時間が聖霊の目的に役立ったあとは、聖霊は時間を必要としない。今や聖霊はただ神が最後の一歩を取ってくださるその一瞬を待っており、そのとき時間は消え去り、知覚することもそれと一緒に去り、真実であることだけがそのまま残ることになる。その一瞬こそが我々の目標だ、それには神の思い出が含まれているのだから。そして我々が許された世界をながめるとき、その神が我々を呼んで、自分たちの生家へ連れて帰るためにきてくださり、許すことで取り戻した自分たちの真の身元を思い出させてくださるのである。