奇跡の道・学習書

二部【十二 自我とは何か】

 自我とは偶像崇拝であり、からだのなかに生まれ、苦しんだあげくその命を死で終わる宿命にある、制限され分離した自己を表している。それは神の御意志を敵と見なす「意志」であり、そうした御意志が否定されたかたちを取っている。自我は、力強いものが弱々しく愛は恐ろしいものであり、生命は実際のところ死であって、神に対抗するものだけが本物だという「証拠」である。

 

 自我とは狂気そのもの。恐怖を抱きつつ、あらゆるところに在るお方を越え、すべてたるお方から離れて、無限なるお方から分離状態にあるとする。狂気のあまり、それは神御自身をあいてに勝利をおさめたと思っている。そしてそのひどい自主性をもって、神の御意志を全滅させたと「見て」いる。そ のために刑罰を受ける夢をみて、その夢の中の人影を、自我のほうから攻撃して自らの安全を確保できるまえに、殺してしまおうと追いかけてくる敵だと見て震えている。

 

 神の子には自我はない。その人は神のうちに留まっているというに、狂気の沙汰や神の死について、何がわかるだろう。永遠の喜びのうちに生きているというのに、悲しみや苦しみの何がわかるだろう。恐怖や刑罰とか罪や罪責感とか憎しみや攻撃、そんなことの何が分るというのだろう、その人は永久に続く平安に囲まれ、いつまでも何の葛藤もなくじゃまされることもないし、この上なく静かで穏やかなところにいるだけだというのに。

 

 実在を知るとは、自我とその思い、それがしでかすことや行為、それのおきてや信念、それの夢や希望、救われるための計画、それを信じることに必然に伴う代償、こんなことをどれも見ないということである。そんな自我を信頼すると避け難い苦しみは計り知れないほどなので、それの薄暗い宮で毎日のように神の子を十字架にかけて、それの青ざめた信者が死支度をする祭壇のまえで血が流されざるを得ない。

 

 しかし、一本の許しの百合の花が暗闇を光に変え、錯覚の産物の祭壇を御命そのものたるお方の宮に変えるだろう。そして神が御子として、また御自分の住まいであり、喜びであり、愛であり、完全に神のものであり、神と完全に一つであるものとして創造なさった神聖な心は、永遠に平安を取り戻すであろう。

 

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