奇跡の道・学習書

二部【一 許しとは何か】

 許しとは、自分のきょうだいにされたと思いこんでいたことが、起こってはいなかったと認めることである。許すとは、罪を容赦して、それを本物にすることではない。罪はないと見なすことだ。そしてそうした見方をすると、あなたの罪はみな許されている。罪とは、神の子の間違った想念以外のなにものでもないのではなかろうか。許しはただその間違いを見てとったうえで、それを手放すこと。そのあと、自由に神の御意志がそれにとって代わる。

 

 許そうとしない思いとは、判断を下しておいて、それが本当ではないのに、疑ってみようとも思わないこと。そうした心は閉ざされているし、解放感は味わえない。そうした思いは投影を保護しようとして束縛を強めるので、歪められたことがより不明瞭であいまいになり、容易に疑ってみることができなく なって、分別が付けにくくなっている。固定した投影と、そうした思いから自ずと望む目標として選んで 目指していることとを何が引き裂けるだろうか。

 

 許そうとしない思いは色々なことをしでかす。半狂乱状態で自らの目標を追い求め、目に映るものを自らが選択した道の妨げになるとして、ねじったりひっくり返したりする。曲解することがその目的であり、それがその目的を達成する手段でもある。そんな思いは実在を打ち壊そうと猛烈な企てをし、何であれ自らの観点と矛盾するように見えることにたいしてなんの考慮もしない。

 

 その反面、許すということはじっと静かにしたままで何もしない。そうした許しは実在の側面を少しも損なうことはないし、それを自らの好みに合うようにねじ曲げようともしない。ただじっと見つめて待つだけで、審きを下そうとはしない。許そうとしない者は審きを下さざるを得ないわけだが、それは自 分が許せないことを正当化しなければならないからである。しかし自分自身を許そうとする者は、真理をあるがままにそのまま喜んで受け入れるようになる必要がある。

 

 では、何もせずに、あなたの御案内役であり御救い主であり御保護者たるお方で、強い希望とあなたが最終的には成功するという確信を持つお方によって、許しに自分はどうすればいいのか教えてもらうがいい。そのお方はすでにあなたのことを許してくれている、それこそそのお方が神から与えられた役目であるから。今こそ、あなたはそのお方の役目を分かち合い、そのお方が救いだして、罪はないと見ており、神の子として尊敬している、その当人を許さなければならない。


◀︎二部・序論第二百二十一▶︎

奇跡の道 -兄イエズスの教え- 購入先

「奇跡の道」には、ペーパーバック、電子書籍(Kindle)、PDFファイルがあります。また、読むのが困難な方、音声で聞きたい方のために、田中百合子さんご本人による「奇跡の道」の朗読がポッドキャストで無料配信されています。ご購入・詳細は、訳者・田中百合子さんのウェブサイトの「書籍ご案内」をご覧ください。

こちらからどうぞ ▶︎