奇跡の道・学習書

一部・第五十三課

 今日、我々はつぎの想念を復習する。

 

(十一)自分の無意味な思いが、無意味な世界を自分に見せている。

 

自分の気づいている思いには、なんの意味もないのだから、それが描き出す世界には何の意味もあるはずがない。この世界を産み出しているものは正気を逸しているし、それが産み出すものも同様に正気を逸している。実在は正気を逸してはいないし、自分には本当の思いもあれば、正気を逸した思いもある。したがって、もし自分の本当の思いを、見ることができるようになるために導いてくれる思いとみなせば、実相の世界を見ることができる。

 

(十二)自分の気が立っているのは、無意味な世界を見ているからである。

 

正気を逸した思いは気を転倒させる。そんな思いが、どこをみてもなんの秩序もないような世界を産み出す。秩序のない考えを表している世界は大混乱になっており、混乱状態にはなんの法律もない。そんな世界のなかで、平安のうちに生きることはできない。こんな世界が本物ではないことを感謝するし、こんな世界を大事にすることを選ばないかぎり、それを見る必要はまったくない。では自分は、完全に正気を逸した何の意味もないものを、大事にすることなど選ぶつもりはない。

 

(十三)無意味な世界は恐れを生ずる。

 

完全に正気を逸したものが恐れを生じるというのは、そんなものはまったく頼りにならないし、信用しようにもなんの根拠も示さないからである。気が狂ったものは何一つあてにできない。そんなものは安全も希望も約束してはくれない。しかしそんな世界は本物ではない。自分でそれこそ実在だと錯覚して、それを信じていたために、苦しみを味わった。いまこそ、そんなことを信じるのはやめて、実在を信用することにする。これを選ぶことで、恐怖の世界が及ぼすどのような影響からも逃れられる、そんな世界は存在しないと認めているのだから。

 

(十四)神は無意味な世界を創造なさらなかった。

 

もし神が無意味な世界は創造なさらなかったとすれば、どうしてそんな世界が存在するだろうか。神こそすべての意義の御源であり、本当であるものはすべて神の御心のなかにある。それは自分の心のなかにもある、神が自分と一緒に創造してくださったのであるから。申し分なく創造されたところに住んでいるのに、なぜ自分自身の正気を逸した思いが及ぼした影響のために、苦しみ続けなければいけないのだろう。自分で決心することにともなう力を思いだし、自分が本当はどこに居るのか認めることにしよう。

 

(十五)自分の思いは、自分が作った想像の産物である。

 

なんであれ自分の見ているものは自分の思いを反映している。自分の思いが、自分はどこにいて、自分が何であるかを教えてくれる。苦しみや失うことや死がある世界を見ているという事実が、自分は自らの正気を逸した思いを描写したものだけを見ており、自分の本当の思いにその慈善に満ちた光を、自分の見るものに注いでもらっていないということを示している。だが、神のなさることは確実である。自分が作った想像の産物は神に打ち勝つことはできない、そうなることを自分は意図してはいないのだから。自分の意志は神の御意志であり、その神をさておき、他の自我の神々に仕えるつもりはない。

 

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