ただ自分の感謝を受けるに値するとして得るだけのこと。
外側の力と自分のとが戦っていると信じることから、自分の心を自由にするためにとる二つ目の段階がこれである。あなたは親切にし、許すよう心がけはする。ところが、感謝の意が表わされ十分に感謝されないかぎり、またしても攻撃しようとする。あなたの贈り物は引き下げられたりしないように、うやうやしく受け取られなければならない。だからあなたは神の賜物はせいぜい借りもので、悪けれ ばあなたの防衛心をだまそうとするごまかしで、神が攻撃を加えるとき確実に殺せるようにしておくため のものだと思っている。
神と罪責感とは、自分の思いによって何ができるか分っていない者たちに、なんと簡単に混同されてしまうことか。自分の力を否定すれば、弱いということが自分にとって救いにならざるを得ない。自分自身を捕らわれの身とみなせば、金棒で囲まれたところが自分の住み処になる。それに、牢獄を去ろうとはしないし自分の力を受け入れようともしないだろう、そうする気になるとすれば、それは罪責感と救いを一つとみることなく、自由と救いは結ばれているとみなされ、それに力強さがともなった状態を求め自分のものだと主張し、それを見いだし完全に認められるようになったときだろう。
あなたがこの世界を自分の錯覚から解き放つとき、この世界はきっとあなたに感謝する。しかもその感謝はあなた自身のものでもある、その世界が解き放たれたことはあなたの解き放たれた姿を映し出すだけであるから。あなたのすべての贈り物に要するのはあなたの感謝の念であって、それは地獄から永久に解放され、胸が感謝で一杯の者からの永遠の捧げものとなる。こうしたことを、自分の贈り物が敬われていないからといってそれを取り戻し、取り消すつもりだろうか。それを敬い、それにふさわしい感謝をするのはあなただ、そうした贈り物を受け取ったのはあなたであるから。
もし他の人があなたの贈り物には価値がないと思ったとしても、それは問題ではない。その人の心のなかには、あなたの心と一つに結ばれてあなたに感謝している部分がある。あなたの贈り物が失われたり、効果のないように思えたとしても、それはかまわない。それは与えられたところで受け取られている。あなたの感謝の念のうちに、それはあまねく受け入れられ、神御自身の御胸にも感謝のうちに認められている。それなのに、あなたはそれを取り戻すつもりだろうか、神が感謝の念をもって受け入れてくださっているというのに。
神はあなたがさしだす贈り物をことごとく祝福してくださるし、それは確かに一つ残らず神に渡されている、その贈り物はあなた自身にのみ与えられるのであるから。そして神に属するものは神御自身のものに相違ない。しかし、あなたが許すには許しても、それをただ再び攻撃するためにしているうちは、神の賜物は確かで、永遠なるもの、変わることなく、無限であり、いつまでもずっと与えられ、愛を拡張しあなたの果てしない喜びに加えられているとは、決して気づかないだろう。
自分の与えた贈り物を引っ込めたりすれば、あなたは自分に与えられているものが引き下げられたものと思うようになる。しかしあなたが自分自身の外にあると思っている罪の数々を、許すことで取り去ってもらうようになれば、神の賜物はただしばらく貸してもらっているだけで、そのうち死ぬことでそうしたものはまたしても取り上げられてしまうとなど、決して思ったりしない。そうなったらあなたにとって死はなんの意味もなくなるのだから。
そしてこんな信念をもつのをやめることで恐れはまったくなくなる。自分の真の自己にこれを感謝するがいい、その真の自己は神にたいしてのみ感謝の念を抱き、神御自身にあなたのことを感謝するのであるから。生きている者、その一人ひとりにキリストがやってくる、それというのもだれもがみなキリストのうちに生き活動しなければならないからである。キリストの存在はその御父のなかで保証されている、キリストと御父の御意志は一つであるから。そのお二方は自ら創造なさったすべてのものにたいして、限りなく感謝しておられるというのも、感謝の念は愛の一部であり続けるからである。
聖なる神の子よ、あなたに感謝する。あなたは創造されたままのすがたで、自分の真の自己のなかにすべてのものを含んでいるのであるから。そしてあなたは今なお、神が創造してくださったままのあなたである。それにあなたは自分の完全さを表わす光を暗くすることなどできない。あなたの胸のなかには、神の御胸がある。神はあなたを愛しいと思っておられるというのも、あなたは神御自身だからだ。感謝の念はみなあなたのものであるというのも、あなたの本来のすがたゆえである。
感謝されるたびに感謝すること。だれであれあなたの真の自己を完了させることになる人にたいして恩知らずなまねはしないように。そしてこの真の自己からはだれ一人のけ者にしないこと。この真の自己を拡張する数え切れないほどの経路となるものすべてに感謝することである。あなたの行いはみなこの真の自己に渡される。あなたの思うことはみなただこの真の自己の御思いでしかなく、その真の自己と神の聖なる御思いを分かち合っている。今こそ、あなたが神から授かった役目を忘れていて、自分自身に拒んでいた感謝を、受けるに値するとして得ることだ。しかし、神があなたに感謝するのを止めておられたとなど、夢にも思わないことである。