奇跡の道・学習書

一部・第百二十四課

 自分と神は一つであることを覚えておこう。

 

 今日はふたたび、我々の本来の身元は神と同一であることに感謝しよう。我々の住まいは安全で、我々がすることはみな護られていると保証されているし、我々が引き受けるすべての仕事に要する能力と力は得られる。何事においても失敗はない。我々が触れるものは何もかもすべて、祝福したり癒したりする光の輝きを帯びる。神と一つ、そして宇宙とも一つとなって、神御自ら我々と共にどこにでも行ってくださるという思いを胸に、喜んで自分たちの道を進もう。

 

 我々の心はなんと神聖なものなのだろう。そして我々が目にするものはすべて、神と一つでありそれ自体とも一つである心のなかの神聖さを反映している。間違っていることが消え去り、死が永遠の命に譲るのはいかに容易なことか。我々の輝く足跡が真理への道を示している、神こそ我々がこの世界をしばらくのあいだ歩むとき、その道連れになってくださるのだから。そして、我々のあとについてくる者たちは、我々の掲げている光が行く手を照らすと同時に後ろも照らすので、その道がはっきりわかるであろう。

 

 我々が受け取るものは、後についてくる人や先に行った人、あるいはしばらく一緒にいてくれた人たちへの、我々からの永遠の贈り物である。そして神は、我々を平等の愛をもって想像してくださったし、その愛で愛してくださり、我々にほほえみかけて、自分たちが与えた幸せを我々に差し伸べてくださる。

 

 今日、我々は神が自分たちを愛してくださっていることを疑わないし、護ってくださっているだろうかとか、気にかけてくださっているだろうかとかと疑問に思うこともない。無意味な心配をして、神の存在を信頼できなくなったり、自覚できなくなったりすることはありえない。我々は今日、神と一つであるl音を認めるしそれを覚えている。それに胸の中にいてくださるのが感じられる。我々の心には神の御思いが含まれているし、我々の目は見るものすべてのうちに神の素晴らしさを見ている。今日こそ我々は、愛に満つるものと愛するに足るものだけを見る。

 

 我々がそれを苦痛に満ちた状況のなかにみれば、苦痛は平安に取って代わられる。それを半狂乱になった者のうちに見、悲しんでいる者や苦しんでいる者、心細くて怖がっている者のうちに見れば、その人たちは創造されたときのような、落ち着きと平安な心を取り戻す。そしてそれを死にかけている者や死んだ者のうちに見れば、その人たちは生き返る。我々がこうしたことをみな見るようになるというのも、最初にそれを自分自身のうちに見たからである。

 

 自分は神と一つであると分かっているものには、奇跡を否定されるようなことは決してありえない。その人たちの思いには一つ残らず、だれかがどんなかたちで苦しんでいようと、それをみな癒す力があり、それが過去のことであろうとこれからのことであろうと、今その人たちのそばを歩いている者たちのと同じように容易に癒せる。その人たちの思は永遠であり、時間とは関係ないし距離とも関係ない。

 

 我々は、自分が神と一つであると言うことで、こうしたことを一緒に自覚することになる。こうした言葉で、我々は救われているし癒されているとも言っており、従って救うことも癒すこともできると言っているのであるから。我々は受け入れたので、こんどは与えるようになる。御父が授けてくださった賜物をずっと思っておくつもりなのだから。今日、我々は自分たちが神と一つであることを経験するつもりなので、この世界も我々が実在を再認したことを分かち合えるだろう。我々がそれを経験することで、この世界も自由になる。我々は御父から分離してはいないと否定することで、この世界は我々と共に癒されたのである。

 

 今日こそ、あなたが平安であるように。あなたの御創造主があなたと一つであるように、あなたはその御創造主と一つだと自覚することを実践して自分の平安を確保するがいい。今日はいつでもいいから、一番適していると思えるときに、三十分ほど時間を取って、自分は神と一つであると言う思いに専心することである。長い時間かけて見るのはこれがはじめてだが、この度はあなたが黙想するのを導くための規則も特別な言葉も与えないでおく。我々は今日、神の御声が思い通りに話してくれるものと信用し、失敗することもないと確信する。この三十分間、神の御声たるお方と過ごしてほしい。あとはその方にまかせておけばいい。

 

 もしあなたが何も起こらないと信じたとしても、あなたの得るものが減るわけではない。あなたは自分にとって望ましいものを、今日受け入れる用意ができていないのかもしれない。しかし、いつかどこかでそれはあなたに現れるし、あなたもそれを自分の心にはっきりと思いついたとき、それに気づき損ねることもないだろう。この三十分間は金の額縁に入れられ、その一分一分は、この練習課題があなたに差し伸べるものを映し出す鏡のまわりにはめられた、ダイヤモンドにも等しい。そしてあなたは、自分の顔が写るはずの鏡に、キリストの顔をみることだろう。

 

 たぶん今日、もしかすると明日、あなたはこの神聖な三十分間が自分自身を見てみるようにと差し伸べてくれる鏡に、あなた自身の変容を見るであろう。あなたの準備が整ったとき、それが自分の心のなかで見つけてもらうのを待ち受けているのを見いだせる。そして、あなたは自分でこの三十分間を捧げた思いそのものを思い出すだろうし、この三十分間ほど有意義に過ごせたことはかつてなかったことに気づいて、感謝することだろう。

 

 たぶん今日、もしかすると明日、あなたはこのこの鏡をのぞいてみて、そこに見える罪のない光は自分のものだし、自分が見ている素晴らしいものはほかでもない自分自身だと得心するであろう。この三十分かんは神に捧げているものとみなすこと、それに対する神のお返しは確かにあるが、自分には理解しかねる藍というものの気持ちや、自分にはわからないほどの深い喜びや、からだの目で見るには神聖すぎるほどの光景だろう。それでも、あなたはきっといつか、たぶん今日、もしかすると明日、そうしたことを理解し分かって見るようになる。

 

 今日あなたに差し伸べられた鏡がはいっている黄金の額縁に、つぎのように一時間おきに自分自身に繰り返すことで、さらに宝石を付け加えるがいい。

 

 自分は神と一つであって、
 きょうだい全員ならびに真の自己とも
 一つであり、永安に神聖
 かつ平安であると覚えておこう。


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