人生の午後を歩き始めたあなたに

人生の朝と午後ではプログラムが異なる。
人生の朝に輝いていたものは
午後に輝きを失い
人生の朝の真実は午後に偽りとなる。

このページへのアクセスありがとうございます。
私の体験が誰かの何かになったら…と
メッセージとしてここに残しておきます。
私だけではなく、きっとたくさんの人が
行こうとしている道を、私が通った時のお話です。
人生の午後を歩き始めたあなたに。

プレリュード

私たちはいつしか人生の午後へと足を踏み入れ、その人生を生きるようになります。
望む望まないに関わらず。

奇跡のコースにある言葉を。

"まだ見たこともない、聞いたこともないとは言え、確かに存在すると言われる世界があなたと共にやってくる"

人生の午後へと足を踏み入れている過程には、喪失や不運にも思えるようなことも起こるのかもしれません。
心の中でのことだったり、外側の出来事でだったり、そのどちらもだったり、ただ、ひとつ言えるのは、いずれにせよ、それまでの自分それまでの生き方や、やり方を変えざるを得ないような流れの中に入っていくということです。

もしかしたら絶望的になることもあるかもしれません。
私もそうやってある時期に突然心の中のすべてを失い、人生の方向をまるで違う方に向かわせざるを得なくなりました。
どうしたらいいかわからず、絶望的な苦しい日々を過ごしました。そして、だからこそ訪れたものがあったのです。

人生の午後の始まり

長年に渡りヒプノセラピストをしてきた私。
仕事も順調でお客様もたくさんいらしていましたし、テレビ出演もしました。
それが、ある時期を境に、突然それまでしていた仕事がしたくなくなりました。
同時に、したいこと、好きなこと、どうやって生きていったらいいか、すべてわからなくなりました。
理由はありません、説明もつかず、ただそうなってしまったんです。

何にでも理由を見つけ出し、正当化することに慣れていた私は、理由のない「もうしたくない」という強い衝動と「何もわからない」という空白感に困惑しました。

それでも、急に仕事を辞めて収入がないと困るので、こんな気持ちも一時の気の迷いと自分に言い聞かせ続けましたが、不思議なくらいパタリと仕事が来なくなったのです。
ただのひとつも。
自営業の私は天からリストラされた気分でした。
けれど…実はどこかでほっとしている自分もいたのです。
これでもうしたくないことをしなくて済むんだ、って。
必然的に、私はセラピストをやめることになりました。

人生の崩壊と暗黒の4年間

それまでの私は、これはこうだ、と強く信じるものを持ち、起こる出来事の理由や原因を探すのが得意で解決策も知っていました(知っている「つもり」でした)。
そんな自分が好きだったし、そんな生き方が正しいと信じて進んできました。
だから、それまで通り何もわからくなった自分を分析しましたし、そこから抜け出すために以前の解決策を試みましたが、精神のよどみは増していくだけ。

その時、私はすでに、なんの理由もなくそれまでの生き方をしていくことができなくなっていました。
それまで自分が正しいと思っていたこと、よいと思っていたことに激しい違和感を感じ、それを境に、考え方や生き方や大切だったもの、人生やキャリアにおいて構築してきたもの、自分の中にあったほとんどのものが、もはや、自分にとって素晴らしいもの、価値あるものではなくなってしまったのです。

それと同時にパートナーが庭師から写真家に転身、当然仕事はなく夫婦で無収入になりました。
今までしてきたことはしたくない、でも、何をしたらいいかわからない…丸裸で世界に放り出されたような気持ちのまま、生活のために、製菓工場や郵便局のパート、チラシ配り、ショップの店員、手当り次第やりました。
それでも収入はたかが知れており、カップラーメンやパンの耳を食べるような生活。
お金の心配をするがあまり、娘の学校の体操服を買うことに躊躇しました。
アパートの更新費用が払えずに借金をしたこともあります。
精神的にも追い詰められた毎日、ただ髪振り乱して働きました。
精神的にも経済的にもオシャレするゆとりなどありませんでした。
イキイキと輝く人、幸せそうな人、うまくいっている人を見るのがつらかった。
妬みもしました。
同時に道を見失って世の中の底辺にいるように感じる自分を責めもしました。

まるでそれまでの人生が崩壊したようでした。
振り返って「暗黒の4年間」と呼んでいる時期です。
ほとほと疲れ果て心がボロボロになり、何もわからなくなったそんな中、書籍「奇跡のコース-ACIM-」と、映画「ザ・シフト」に出会います。
それによって自分の中で起こったことが何だったのかの答えを得ることになります。

変容の旅

何もかもがうまくいかず、出来事は悪い(と感じる)方へどんどん流れていき、つらいことばかりの毎日でした。
希望のかけらもなく、自分がただ呼吸をしている肉の塊のように感じました。
一生このままで終わるのではないかとさえ思った、そんな、地を這うような4年間。
それは、不運や罰や仕打ちではありませんでした。
また、私自身が堕落してダメ人間になったわけでもありませんでした。

自分は何もおかしくなかった…

そう、私は変容の旅をしていたのです。
映画「ザ・シフト」でも引用されているユングの言葉をここに。

「人生の午後は予期せぬ時に訪れる。しかし、最初のうちはそれまでの心理と価値観が正しいと信じている。だが、人生の朝と午後ではプログラムが異なる。人生の朝に輝いていたものは午後に輝きを失い、人生の朝の真実は午後に偽りとなる」

この言葉を目にした時(映画の字幕)涙が溢れました。
子供のように声をあげてわんわん泣きました。
自分に起こったことは間違いではなかった、人生の午前から午後へとシフトする過程を体験していたのだ、無条件にそう思えたのです。
本当に、本当に、うれしかった…

人生の午前、それは自我的生き方であり、人生の午後、それは魂に添った本質的生き方と言われています。
確かに、私はそれまで価値を感じていた(輝いていた)ものを自分のものにしておくことができなくなっていました。
それを自分のものにしておくのは自分への偽りだったのです。
自分にとってはすでに偽りであるものをもういらないと思いつつも、他のものを知らないがゆえにしがみつきながら、何かが違う、何かがあるはず、そう感じていた私は、4年の歳月をかけていらないものを削ぎ落とし「何か」を待っていました。
どん底だった4年間がどれほど恩恵に満ちた出来事だったのかを理解するのに時間はかかりませんでした。
振り返ると落ちぶれて荒れ果てたように見える体験は、自分に帰る旅そのものでした。
遠心分離機にかけられ、自分のものにしておけなくなった観念や生き方、現実的選択を、自分の意図とは関係なく引き剥がされるような、そんな時間だったのだから。

寒く暗い夜の終わり

そして、喜びや幸せを感じるものが変わっていきました。
今、ここにいて空が青いこと、風が、陽射しが、気持ちいいこと、木がざわめくこと、家族がいること、お布団があること、お風呂があること、外側はないないづくしだけれど、「ある」とも思っていなかったものがそこに確かにあり、それそのものが豊かさであることを感じるようになっていきました。

現実はボロボロで変わっていないのに、なぜこんなにも幸せを感じるのだろう…

不思議に思いました。
心だけが入れ替えられたかのように私の内側が変わっていたのでした。
そして、その幸せは私がかつてどんなものでも味わうことのなかったものでした。
なにもないのにみんなある、そんな感覚。

立派であるために、認められるために、受け入れられるために、嫌われないために、豊かであるために、安心するために、困ったことにならないために、固守してきたもの、とらわれていたもの、こうしなければならない、こうしてはいけない、そんなものがすべて崩れ去ったのに、私はかつてないほどの幸福感に静かに満たされていったのでした。

今まで、幸せになるために必要だと思っていたものは一体なんだったんだろう…

私を翻弄してきたあらゆる感情の波でさえ、もう私を本当の意味で苦しめることはできないとわかりました。
たとえそれがこれからも度々訪れようとも。

うまく説明できませんが、これが本当に欲しいものであり、私はこれを体験するためにここまで来た、そうわかったのです。
わかるために理由も何も必要ありませんでした。
ただ、わかったのです。

現象として起こることはどんなことであれ、私達をしかるべき場所へといざなうためのものに他ならないことを、体験を通して、理屈を超えて自分の中に落とし込んでいったのでした。

その頃からです。
長い暗いトンネルの終わりにさしかかったように感じ始めたのは。
春の気配をなんとなく感じる冬の終わりの頃のような感覚でもありました。

それは、長い長い暗く寒い夜の終わりでした。

人生の午後へのシフト

その頃から、それまで目にしなかった情報が入ってくるようになりました。
それは人の意識の目覚めに関するものでした。

また、新しい出会いや新しい形での仕事や色々なものが人生に流れ込んでくるようになり、喜びと豊かさが増えていきました。

人生の午前を生きていた時とは違う世界でした。
それから私は人生の午後をよちよち歩き始めたのです。

人生の午後を生きるにあたり、心の中にあったものを失ったことで、私はまるで赤ちゃんのようにすべてを学び直しています。

そのテキストが「奇跡のコース」です。

それにより、人生の午前には見ることのなかった世界を見ることになりました。

シフトは一瞬ですべてが切り替わるのではなく、午前がフェードアウトし午後がフェードインしてくる、そんな過程を通過するように思います。
私もいまだに午前の余韻に惑わされることがあります。
色々な感情に翻弄されることも。
それでももう二度と人生の午前に戻ることはできません。
以前の私なら理解不能なこと。

今も完全にわかっているかと問われればそうではないでしょう。
ただ、ようやくわかってきた、と言うか、腑に落ちているのは、私達は自分が思っているような世界には住んでいないということ。
肉体をまとってこの世界を体験している魂であるということ。
私達すべての存在は価値ある素晴らしいものでありとても美しいということ、愛であるということ。

そして、親や学校や社会は教えてくれることのなかった大いなる摂理がそこにあり、それを忘れてしまっているということ。

恐ろしい夢にうなされるように幻想に惑って生きているけれど、真実を知ってそれを終わらせるためにここにいるということ。

それを悟りと言う人もいるし、目覚めと言う人もいるし、表現は色々だけど、私達はそこに向かって生きているということ。

それは人生においての最大最高の冒険。
その冒険をするのに条件は必要ありません。
ただもし必要なものがあるとしたらそれは「意思」だと思っています。
人生の午前に慣れ親しんだ考えや行動を、午後の自分に切り替えていく意思。
自我の声に従うのではなく魂の声に従う意思。
そのために訪れるものを体験していく意思。

自分だと思い込んでいる自我の考えからしたら、時にそれはとんでもないことです。
よくないことが起こるかもしれないという恐れに、これからどうなるかわからないという不安に、がんじがらめになって一歩も動けなくなることもあるかもしれません。
どうしたらいいかわからなくなることも。
そして、思いとどまりそれまでと同じ道を行こうとするかもしれません。

それでも、見えない力は常にはたらきかけ、私達を人生の午後へといざない続けています。

人生の午後を歩き始めたあなたに

人生の午後は自分でも気づかないうちに訪れています。
人生の午後を生きるようになると、それまでの考え方や生き方が窮屈に感じたりします。

当たり前だったこと、自分にとって正しかったこと、素晴らしかったもの、大切なものに違和感を感じたり、どうしてもそれが今の自分にフィットしないジレンマや苦しさを感じることもあるでしょう。

ある時期を境に、それまでうまくいっていたことが急に失速したり、うまくいっていても何かが違うという感覚を覚えることもあるでしょう。

何らかの出来事により、それまでの人生が強制終了されたかのような体験をする方もいらしゃるでしょう。

そんな時、人は困惑します、これからどうやって生きていったらいいのかと。

一見喜ばしくない状態に思えるそんな時、「シフト」が訪れていることがあります。
それまでの生き方を変える時が。
望む望まないに関わらずそれは訪れます。
生きずらさが「サイン」となって行く別の道を示され、導かれていきます。

そうして人は人生の午後へと足を踏み入れていくのです。

あなたにはどんな「サイン」が訪れているでしょう。
あなたの魂は何を伝えようとしているのでしょう。

その答えは必ず見つかります。
「それ」が「起こる」時に。

私たちは想像を絶するほど愛されているのだから。

人は絶望によって目覚める

「人は何によって目覚めるのか。
 それは瞑想などではなく『絶望』である」

「奇跡のコース」を書き取ったヘレン・シャックマン女史とも直接親交のあった奇跡のコースの教師であるジョン・マンディ氏の言葉です。

人は絶望した時、初めて手放すことがあります。
自分でなんとかしようとすることです。

どうか安心してください。
もし困っていることがあるなら、苦しんでいることがあるなら、それを終わらせる時が近づいています。

また、「何か」を探し求めているとしたら、「本当のこと」が知りたいと思っているとしたら、どうか安心してください。
それが訪れる時が近づいています。

知らぬうちに訪れた人生の午後、その道を歩き、体験を重ね、私は生きています。
シフトした人生を生きて感じたこと、今の私になって表現できることを、ブログ記事やエッセイとして書いています。
そして、それが、同じくその道を歩く人のための道しるべになったら本望です。
それは、私がずっと欲しかったものなのです。

最後まで読んでくれて本当にありがとう。

あなたに一切の罪はない。それは神によって保証されている。

奇跡の道

必修すべき道である。
いつ取り組むかということだけはあなたの随意。
自由意志とは学ぶ内容を自分で決められるという意味ではない。
ただ好きなときに何を取りたいかを選べるだけのこと。
この道は愛の意味を教えることを目指しているのではない、なぜならそれは教えられることを越えているからである。
しかしながら、愛は現存する、という自覚をさえぎるものを取り除くということはたしかに目指している、そしてその愛はあなたが生まれながらに受け継いでいる。
愛に反するものは恐れであるが、すべてを含みもつものは相反するものを持ち得ないのである。
したがってこの道は、次のようにごく簡単に要約することができる。

実在的なものは何も脅かされない。
非実在的なものは何も存在しない。
ここにこそ神の平安がある。

"A Course in Miracles 奇跡の道 ー兄イエズスの教えー 序文"

映画館にいたとき

あなたは映画館のなかにいただけではなかった。
あなたは映画のなかにいた。
あなたはその一部になっていた。
あなたは観客ではなかった、あなたは当事者になっていた。

次に行ったら、見てみなさい。
観客のままでいると、あなたは影響を受けてはいない。
というのも、観客はそれが無に等しいとわかっているからだ。
なにも起こってはいない。
当事者になったとたんに、それがすべてのものになっている。
そこであなたは気づきを失う、そこで夢が現実になる。
そこで気づきを取り戻せば、夢は夢になる。

"Oshoの言葉"